民政移管後、初めての選挙が実施され、国際社会の大きな注目を集めたミャンマー。選挙関連の報道を見て、頭をよぎったのは、10年目前の2005年に東南アジア一周旅行の際に触れた、ミャンマー人の素朴な暖かさと高熱と下痢に襲われた出来事でした。
今やアジア最後のフロンティアとして経済面でも脚光を浴びるミャンマーは、10年前に訪れた時は、首都ヤンゴン(当時)の国際空港でさえ、小学校の体育館のような設備で、インフラが整っていない印象を受けたのを鮮明に覚えています。隣国のタイやマレーシアのように快適とはいきませんでしたが、それでも順調に旅程は進み、世界3大仏教遺跡の1つとされるバガンまでたどり着きました。
食事のあとに激しい体調不良に、治る気配なく
滞在したホテルGolden Village Innに荷物を置いたのが午後だったため、観光には出かけず、翌日に備えて腹ごしらえのためローカル食堂に。しかし、言葉が全く通じず、隣の席の人が食べているものを指さして何とか注文できました。テーブルに料理が運ばれてくるやいなや、停電が発生。現地の人にとっては日常茶飯事で、慌てる様子もなく次々にロウソクに火をつけ、淡々と営業を続けていました。
ロウソクの灯りで視界が限られていたせいか、運ばれてきた料理はお世辞にも、おいしそうには見えず、見た目はともかく、口に運んでみると妙な味がしました。しかし、隣の席の人が同じものを特に変わりなく食べ続けていたので、現地食としてありのまま受け入れる以外の選択肢はなかったのです。
翌日、滞在した宿で朝食を済ませ、いざ観光にでかけようとホテルの玄関を出た瞬間、突然気分が悪くなり、道端に嘔吐してしまいました。吐しゃ物から、昨夜の夕食が全く消化されていないようでした。どうしたのだろうと思っていると、今度は瞬間湯沸かし器のごとく突然、熱が一気に上がり、立っていられない状態に陥ったのです。
東南アジア一周中の終盤で、旅の疲れが出たのだろうと、宿の部屋に戻って休むことに。すると、高熱に続き下痢に襲われ、5分置きにトイレに駆け込む事態になったのです。ミャンマーのトイレットペーパーは、紙が分厚く、1ロールがまたたく間になくなってしまいました。体調を心配した宿の従業員が頻繁にトイレットペーパーの補充をしてくれ、1泊3ドルの宿の割に、親切に対応してくれました。
しばらく休んでも良くなる気配がなく、何か食べて栄養をつけないといけないと考え、観光客向けのレストランで、食欲がなくてもスープなら食べられるだろうと挑戦しましたが、全く喉を通らず。何も食べていないので、エネルギーも沸かずフラフラの状態でした。
保険も未加入、クレジットカードもなく現金も足りず、病院に行けずに過ごす
気休めに飲んだ日本の風邪薬の効果はなく、翌日も高熱と下痢が続いていました。病院に行った方がいいとアドバイスされましたが、当時は海外旅行保険に加入しておらず、おまけに手持ちの現金もほとんどない状態。当時のバガンは、ATMも見当たらず、クレジットカードで支払いができる環境が整っていなかったので、自然治癒力に任せる以外の方法はなかったのです。
宿の天井を眺めるだけの時間が過ぎていき、何が体調不良を招いたか考えた時、思い当たる節は、初日に停電中の食堂で食べたあの闇メニュー以外になかったのです。食事が原因とすれば、もう少し様子を見ても大丈夫と判断して、ただひたすら休む、トイレの繰り返しで時間だけが過ぎていきました。
3日目にようやく食事がとれるようになり、栄養補給とともに下痢も治まり、症状に改善がみられました。熱はまだあったものの、残りの日程も立て込んでいたので、病み上がりでしたが、バガンの仏教遺跡を自転車で巡りました。
体調が万全でない中でも、目に飛び込んできたバガンの光景は息をのむ程のスケールでした。一体いくつもの寺院がこの大地に存在するのだろうか。ただただその無数に点在する空間に圧倒されたのです。熱はその後無事に下がり、健康体で残りの日程を進めることができました。
ミャンマーと聞くと、いまでも思い出すのが、あのトイレに駆け込み続けた日々ですが、今となってはそれも旅もいい思い出です。
志方拓雄